平和への願い

私の5歳の記憶から、平和への熱い思いを込めて述べたい。

1945年(昭和20年3月13日午後11時57分~翌14日午前3時25分)大阪に大空襲があり、約1万5千人の命が奪われました

ウオーン ウオーン ウオーンと空襲を知らせるけたたましいサイレンとB29戦闘機の爆音のする中を、私は叔母(母の妹当時21歳)に手を引かれ国道26号線を逃げまどいました。叔母の右手に兄(当時6歳)左手に私、そしてその背中には弟(当時3歳)を背負っていました。

焼夷弾が私達の頭上に容赦なく降り注ぐそのさまは、まるで花火の残骸がひらひらと落ちて来るようでした。

国道26号線沿いの家々を真っ赤な血色に染めて炎上させていました、私達4人は防空ズキン(中に綿が入った帽子)を被り、私の履物は足を火傷しないようにコッポリ(お正月に履く着物用の背の少し高い下駄)を履いていました。

逃げまどう中、ある防空壕にたどり着き、中に避難させてほしいと、叔母は何度も何度も頭をさげ、手を合わせ懇願していましたが、満員でダメだと断られていました、仕方なく又火の海の中をあちらこちらと逃げている時「ドカーン」と鼓膜が破れるような音が地響きと共に今来た道の方でしました、振り向けば、先ほど断られた防空壕に投下されたのです、勿論その中の人達は全員死亡です。叔母はその時「運があったのかな」と呟き、私達兄弟3人を力一杯抱きしめ泣いていました。

真夜中なのにまるで真昼のようにあたり一面真っ赤です、メリメリ バリバリと音をたてて家々が燃え上がっていました。病気の母(当時25歳)は近所の人に助けられ戸板に乗せられ避難して無事でした、父は戦場で中国です、空が白みかけてきた頃、母と叔母と私達兄弟3人は、あたり一面焼け野原の中、白い煙の立ち揚がる我が家の前で、茫然と立ち竦んでいました、母と叔母の目からはとめどもなく大粒の涙がこぼれ落ちていたのが今でも忘れられません。

あれから65年、私は衣食住のすべてを失った人達の数々の苦労を目の当たりに見てきました。多くの尊い生命が戦場で、空襲で失われた戦争を2度と繰り返したくありません。戦争を知らない人達に、65年間わが国で戦争が無かった幸せを今一度見直し、平和な世界に向かって突き進んでほしいのです。

私の友人夫妻が「平和への祈り」と題して、ここ数年8月に、ヒロシマ&ナガサキの朗読劇を開催しています(兵庫県豊岡市)、毎回満員で感動を呼んでいます。小学校にも巡回公演をしています。

2度と戦争をしたくない気持ちを平和への願いを…このような形に表して若い人達に伝えている友人夫妻に(ありがとう)と、大きな拍手を送り、いつまでもこの「平和への祈り」の朗読劇を続けてほしいと願っています。                 2010年8月6日 佐々木浩子

無題

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